INICIAR SESIÓN一人暮らしを始めて、三か月ほど経った頃だった。
毎晩、午前二時になると、隣の部屋から拍手が聞こえるようになった。 最初は、特に気にしていなかった。 「パチ、パチ、パチ……」 乾いた拍手の音が、壁越しに聞こえてくる。 三秒に一回くらいの間隔で、ゆっくりと。 それが三分ほど続く。 そして、午前二時三分になると、ぴたりと止まる。 最初のうちは、隣人が夜中にテレビでも見ているのだと思っていた。 映画か、スポーツか、何かのお祝いでもしているのだろう。 ただ、少し変だった。 毎晩、まったく同じ時間。 午前二時ちょうど。 そして、まったく同じ長さ。 午前二時三分。実家の片付けを始めたのは、母に頼まれたからだった。「お父さんの部屋、そろそろ何とかしないとね」父が亡くなって、もう半年になる。遺品整理を先延ばしにしていた母も、ようやく少しずつ片付ける気になったらしい。私は週末になると実家へ帰り、古い書類や衣類を箱に詰めていた。その日、押し入れの奥から一冊のアルバムが出てきた。茶色い革の表紙。かなり古いものだった。「これ、懐かしい」母が横から覗き込む。私はアルバムを開いた。幼い頃の私。運動会。七五三。家族旅行。どれも覚えている写真だった。ページをめくっていると、ふと手が止まった。一枚の写真に、見知らぬ女性が写っていた。家族四人で撮ったはずの写真だった。父。母。幼い私。そして、知らない女性。三十代くらいだろうか。肩までの黒い髪。白い服。そして、妙に自然な笑顔。「お母さん。この人、誰?」母は写真を見た。しばらく黙っていた。「……知らないわ」「え?」「そんな人、うちの家族にいなかったもの」母は笑った。「昔の写真だから、誰かが一緒に写ったんじゃない?」「でも、これ家族旅行の写真だよ」写真の裏には、父の字で日付が書かれていた。私が五歳の頃、家族三人で温泉旅行に行った日だ。「お父さんに聞いてみれば?」母はそう言って、アルバムを閉じようとした。私はもう一度、写真を見た。どうしてだろう。その女性の顔に、妙な既視感があった。初めて見るはずなのに、ずっと前から知っているような。そんな気がした。 その夜、私はスマホでアルバムの写真を何枚か撮った。ベッドに入ってから見返していると、気になることに気づいた。あの女性が写っている写真が、一枚だけではなかった。別のページにもいる。今度は父の隣。さらに次のページでは、母の隣。写真をめくるたびに、少しずつ私たちに近づいている。──偶然だろう。昔の写真なのだから、撮影する人や場所によって立ち位置が変わることもある。私はスマホを置いた。そのとき、通知音が鳴った。母からだった。<さっきの写真、もう一回見せて>私は写真を送った。しばらくして、返信が来た。<変ね><何が?>既読がつく。返信はすぐには来なかった。数分後。<この人、前にも見た気がする>やっぱり。母も同じことを感じている。そう思った。だが、その次のメッセージを見て、背筋が冷た
午前一時を過ぎた頃だった。 ベッドに入ってからもなかなか眠れず、私はぼんやりとスマホを眺めていた。 特に見るものもない。 SNSを開いて、閉じる。 動画を少し見て、閉じる。 そんなことを繰り返していたとき、画面の上に通知が一つ表示された。 LINEだった。 送り主の名前を見て、思わず指が止まる。 「美咲」 高校時代の友人だった。 卒業してからはほとんど連絡を取っていない。 最後に会ったのも、もう三年くらい前だ。 どうしたんだろう。 そう思いながら通知を開く。《まだ起きてる?》 たったそれだけだった。 私は少し迷った。 こんな時間に連絡してくるなんて珍しい。 けれど、久しぶりの名前が懐かしくて、私は何気なく返信した。《起きてるよ。どうしたの?》 既読がつく。 すぐだった。 そして、数秒もしないうちに返信が届いた。《よかった。》 その二文字を見て、なぜか少しだけ嫌な感じがした。 でも、そのときは気にしなかった。 続けてメッセージが届く。《今、あなたの家の前にいる。》 私は画面を見つめた。 意味が分からなかった。 冗談だと思った。 美咲の家から私の家までは、電車で一時間以上かかる。 こんな時間に突然来られる距離じゃない。 私は笑いながら返信した。《嘘でしょ?》 既読。 すぐに返事が来た。《本当だよ。》 その直後だった。 ──ピンポーン。 玄関のチャイムが鳴った。 心臓が跳ねた。 私はベッドの上で固まった。 こんな時間に、誰? もう一度。 ──ピンポーン。 チャイムが鳴る。 私はゆっくりスマホを握り直した。 画面には、美咲からのメッセージ。《開けて。》 背中が冷たくなった。 私は玄関へ向かわなかった。 代わりに、音を立てないようにベッドから降りる。 玄関には近づかず、部屋の照明を消した。 そして、カーテンの隙間から外を見ようとした。 けれど、怖くて手が動かない。 そのとき。 スマホが震えた。《どうしてカーテン閉めたの?》 息が止まった。 私はカーテンに触れていない。 閉じたのは、もっと前だ。 なのに。 どうして分かる? もう一度、チャイムが鳴った。 ──ピンポーン。 今度は長かった。 私は画面を見つめたまま、指一本動かせなかった。 する
一人暮らしを始めて、三か月ほど経った頃だった。 毎晩、午前二時になると、隣の部屋から拍手が聞こえるようになった。 最初は、特に気にしていなかった。 「パチ、パチ、パチ……」 乾いた拍手の音が、壁越しに聞こえてくる。 三秒に一回くらいの間隔で、ゆっくりと。 それが三分ほど続く。 そして、午前二時三分になると、ぴたりと止まる。 最初のうちは、隣人が夜中にテレビでも見ているのだと思っていた。 映画か、スポーツか、何かのお祝いでもしているのだろう。 ただ、少し変だった。 毎晩、まったく同じ時間。 午前二時ちょうど。 そして、まったく同じ長さ。 午前二時三分。 それが一週間続いた。 気味が悪くなったのは、八日目だった。 仕事から帰ってきた私は、廊下で隣の部屋の郵便受けを何気なく見た。 郵便物が一枚も入っていない。 それだけなら、別におかしくない。 けれど、その部屋のドアには、表札すらなかった。 私は管理会社に電話した。 「あの、隣の部屋って、今どなたか住んでますか?」 担当者は少し黙ってから答えた。 「隣……ですか?」 「はい。毎晩、夜中に音がするんです」 「何号室でしょうか」 部屋番号を伝える。 すると担当者の声が、少しだけ変わった。 「あちらは、現在空室です」 「空室?」
新しい募集ページが公開されたのは、契約確定から3日後だった。私は、不動産情報サイトでコーポ青葉を検索した。203号室の情報が、すぐに表示された。【成約済み】コーポ青葉 203号室 所在地:東京都杉並区荻窪○-○-○ 家賃: 63,000円(管理費込) 間取り:1K(25㎡) 築年数:18年 設備:リフォーム済・バストイレ別・フローリングそして、ページの最下部。備考欄に、一文だけ記載されていた。※詳細はお問い合わせください私は、画面を見つめた。「詳細はお問い合わせください」でも、問い合わせても、何も答えられることはない。なぜなら、告知すべき「事項」が存在しないから。法的には。私は、ブラウザを閉じた。それから1ヶ月が経った。新しい入居者は、予定通り入居したのだろうか。矢崎からの連絡は、一切なかった。私も、連絡を取ろうとは思わなかった。この件は、「終わった」ことになっている。でも──本当に、終わったのだろうか。私は、時々夜中に目が覚めた。そして、あの音を思い出す。ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。誰かが這っている音。出られない誰かが、必死に這っている音。2ヶ月後、私は別の仕事で杉並区を訪れた。そして──何かに引き寄せられるように、コーポ青葉へ向かった。建物の前に立つ。変わらない外観。変わらない静けさ。私は、2階を見上げた。203号室の窓。カーテンが、かかっていた。白いレースのカーテン。
矢崎からメールが届いたのは、募集開始の前日だった。件名は「資料返却のお願い」。本文は、極めて事務的だった。> お世話になっております。> 先日の調査、誠にありがとうございました。> つきましては、調査時にお渡しした資料一式をご返却いただけますでしょうか。> また、調査で取得されたデータ(録音、写真等)につきましても、削除をお願いできればと存じます。> 何卒よろしくお願いいたします。私は、画面を見つめた。資料の返却は、理解できる。でも、データの削除まで──これは、明らかに証拠の隠滅だった。私は、返信を書いた。> 承知しました。> 資料は明日お返しします。> ただし、データの削除については、少し考えさせてください。送信してから10分後、電話が鳴った。矢崎だった。「すみません、急に」「いえ」彼は、少し躊躇ってから続けた。「データの件ですが……これは会社からの正式な要請なんです」「法的な根拠はありますか」「いえ、ありませんが……」矢崎は、言葉を選んだ。「お願い、という形です」「断ったら?」「……困ります」彼の声は、疲れていた。「正直に言います。上からかなり圧力がかかっているんです」「圧力?」「この件を、なかったことにしたいんです。会社は」私は、黙った。矢崎は、続けた。「募集を開始する以上、過去の調査記録は残したくない。もし後で問題になった時、『調査はしたが、異常は見つからなかった』という立場を取りたいんです」「でも、異常はあった」「証明できないんです」矢崎の声が、掠れた。「法務が言
報告書を提出してから、3日間、矢崎から連絡がなかった。私は、その間に事故物件情報サイトへの掲載文を準備していた。大島てる系のサイトに載せるなら、こういう文面になるだろう。東京都杉並区荻窪○-○-○ コーポ青葉203号室過去の入居者が退去後、行方不明。詳細不明。でも、これでは不十分だ。「行方不明」では、事実を伝えていない。私は、何度も書き直した。過去の入居者の存在が、退去後に確認できなくなっている。いや、これも曖昧だ。入居者が、部屋から出られなくなっている可能性。でも、これでは誰も理解できない。私は、キーボードから手を離した。何をどう書いても、この現象は言語化できない。そして──もし掲載したとして、誰が信じるのか。その時、電話が鳴った。矢崎だった。「お疲れ様です。報告書、拝見しました」「はい」「それで……少し、お話があります」彼の声は、緊張していた。「今からお時間ありますか」1時間後、私はエリアプランニングのオフィスにいた。会議室には、矢崎の他にもう一人、スーツ姿の男性がいた。「こちら、当社の法務担当の者です」法務担当は、40代くらいの男性。表情は硬かった。「報告書を拝見しました」彼は、私の報告書を机に置いた。「結論から申し上げます。この内容での掲載は、お控えいただきたい」私は、予想していた反応だった。「理由を教えていただけますか」「まず、法的根拠が不明確です」法務担当は、冷静に説明を始めた。「告知義務が発生するのは、『心理的瑕疵』が明確な場合です。自殺、他殺、孤独死など、客観的な事実